深夜のつれづれ 

<1>

誰でもとは断定しないが、少なくともあたしは、
人から悪意のようなものを、感じることがある。
視線や口調、態度や表情から。

だけどあたしは、あくまでも相手の中の、
悪意の有無を、感じ取れるなんて有り得ないと考えてもいる。

悪意の有無なんて、本人にしか、
もしくは、本人にすらわからないような、
心の中の出来事。

そんなの、外側の人間であるあたしが、
他人であるあたしが、判断なんてできるはずがないと、
そう考える傍らで

現実に『相手の悪意のような何か』を感じることで、
身動きが取れなくなる自分がいるのも事実。

時々考えるんだ。
あたしは、相手の『目に見える(表現されている)どの部分』を見て
『どういうフィルターを通すことで』
相手の中に悪意を見てしまうのか。

そしてその『あたしのフィルターの精度』は、
どのくらいあてになるのか。

あたしが見る悪意のうち、
相手が実際に悪意をあたしに向けている割合は、
どれくらいなんだろう。
それと同時に、あたしが悪意なんて感じない誰かが、
あたしに悪意を向けている割合は?

でも結局わからない気がする。
だって、答え合わせなんてできないもの。

<2>

ちなみにそれを逆から考えると、
他人からは、悪意の有無、その他諸々、
あたしの内側なんて見えやしない。

あたしに他人の内側が見えないように、
他人にも多分、あたしの内側は見えないだろう(断定はしないが)

だから、あたしが無邪気に言った言葉に、
相手が悪意を見てしまったとしても
逆に、悪意から相手をけなした言葉に、
相手はただ、ふざけあっただけ、とみたとしても、

それはちっともおかしくない。

それこそ、人間と人間の間は、そういう風にできている、
ということに近いのではないかと思う。

<3>

話は変わるが、
仮にそんな風に人間と人間の間ってものができていたとしても、
人には『理解しあいたい欲求』があることをなんとなく感じるし、
『理解し合えないこと』に、
どうしようもなく苦しむ人を見ることがある(あくまでもあたしの主観だが)

そんな風に人間と人間の間ってものができている、としたら、
その欲求は非常に残酷で無意味じゃないか。
理解が叶わないとしたならば、
『その欲求』は、人を苦しめる為だけの毒じゃないか。

それでもあたしは、その欲求が多くの人にあるという事実は、
『人間が、進化の中で培ってきたもの。
 ということはその欲求は恐らく、人が生きるために必要なものなのだ』
ということを示しているんだろうと考える。

<4>

お互いの脳みそを覗くことはできない、
厳密に理解しあうということは難しいという事実(?)を背負いながら、
理解しあいたい欲求を多くの人間が持っている。

そしてその欲求は、人間が生きるために意味のあるもののようだ。

もしも 本当にそうだとしたら
それには一体 どんな意味が?
社会生活する生き物だから意志疎通は不可欠だから?

でもそれならどうして『完全に理解しあう』能力ではなく、
『理解を求める欲求』なのか。

能力はなくても、欲求だけにも意味はあるのか?
『能力はない前提で、欲求だけはある』
だからこその意味のようなものは、あるのか?

<5>

其の欲求が無ければ
どんな風に不都合が生まれるのか

とか・・
考えてまとめたいなあ と思いつつ・・

今日はもう良いや 。
エネルギーが余ってて
気が向いたとき また 考えようっと★



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[2010/03/27 00:36] 自分・人間・社会・言葉・コミュニケーション 等 | トラックバック(-) | CM(0)

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